ルーツ

夏季休暇を利用して実家へ戻る。
子供は虫取りやら海やらで大はしゃぎ。
庭でテント張ってるのがなんだか間抜け過ぎ。

で久しぶりに父と話をしていると、随分前に他界したワシの爺さまの手記がみつかったという。

ワシの爺さま…
生まれたのは大正3年の10月。金沢の浅野川沿いの極貧の八百屋の次男坊だったらしい。
小学校を卒業後、家業を手伝っていたところ、戦争に借り出され、また終戦後、戦地より戻ってから戦後の混乱の中をどう這い上がっていったかというのが切々と記されている。
中でも戦争中の話には興味深いものが多く、実際幾度となく際どいところで生き残っているのには、唸らざるを得ない。
今ワシがこの世に存在しているのも、ホントこの偶然の積み重ねに過ぎないのだとつくづく思い知らされる。
もう少し日々精進して生きんといけんね、これは。

爺さまの入隊は、徴兵検査の施行後の昭和10年1月(呉海兵団に入団)。
日本軍が真珠湾を攻撃して大東亜戦争が始まった後、瑞鶴(空母)に乗り、トラック島経由でラバウルへ。
所属は海軍二五二航空隊。どうやら零戦の整備兵だったらしい。

到着後、さらに前線のバラレ島に進出した後、激戦の中、二五一航空隊と交代で、ウェーキ島警備へ(交代した夜、バラレ島大空襲。二五一航空隊安否不明)。
ウェーキ島では、敵の空襲に対し基地の零戦(30機)で応戦するも次第に劣勢となる。結局3回の大空襲により味方壊滅状態。
3回目の大空襲後、隊長より「敵機動部隊が明朝敵前上陸を開始するから全員死んでくれ」と「玉砕」を言い渡される。
ほんとの戦争になれば、現代でもこういった戦術は十分あるんでしょうな。
全くの犬死。しかし、その時、アンタ死ねますか?

軍艦旗、電報、赤本(機密電信略語)、重要書類も全て焼却。
陸軍から手榴弾も貰い、その夜から今か今かと敵前上陸を迎え打たんと海岸線にて待機するも、それから3日間とうとう敵の来襲なし。
と、ここで本部より、整備員不足で至急参集の打電あり。
(作戦で大量に空母を失い、戦闘機乗りやら整備兵が不足したんでしょう)

一式陸攻に乗ってマロエラップへ(ここも空襲が連日ひどかった模様)。
マキン島の隊を援助すべく零戦100機を整備、各機に50kg爆弾を2個装備して出撃したが、2回の出撃で戻ったのは半数。
「まともに空戦をやった勇敢なる兵は皆戦死した」とあり、敵編隊の機数が尋常ではなかった模様。
この年(18年)の暮れ頃、移動命令がありトラック島を経由して移動、新兵教員係として内地へ復帰。
(その後マキン、タラワ、ルオット等第一線の基地が次々と玉砕)。
そのまま終戦

いつの時代も人のため、お国のため、と身を粉にして働いてる人が、この日本にはたくさんいるワケですから…
せめてそのお国さま、どうか我々を誤った方向に導きませぬように。

そう思いながら合掌させて頂きます。